帰って来た また努力しないとな

久しぶりに浦安のボロアパートで過ごす週末。いつものことだが暑い。競馬を見ても集中できずボーっと見る。外出する気力なし。体調も思わしくないが、もしかすると冷房のあたりすぎかもしれん。この一週間、ずっと暴飲暴食の日々だった。先週金曜の宴会では飲めるようになったばかりの「焼酎のロック」で自分の酒量がわからず、二日酔い。寝台列車の中では駅弁を食べすぎ、実家では相変わらず山盛りてんこ盛りに出してくれるご飯がウマい…特に、馬刺しは最高(^_^)。大分でももちろん食べすぎ、同期との飲み会でもワンフーでもしこたま飲食。福岡での合コン?でも腹一杯。
先月末に和歌山県の山奥に行った時、湯ノ口温泉の体重計で体重の3kg減を確認していたものの、この調子ではそれまでの苦労が水泡に帰している可能性は高い。水T氏は2005-08-11で私のことを「割とすっきりしている」と評していただいたが、それもまた醜く戻るかもしれん。そういえば大分で会った皆さん…みんな健康には結構留意している感じだったナァ。水T氏も日記を見ている限りでは一進一退のようだが彼は元々体脂肪率は高くないらしいし。40が近い亀仙人やM男もスマートなオッサンの風だし、腹の出っ張りが見事だったH川も以前ほどではなくなった。今回もっとも華麗に変身していると見えたのはM村氏で、自分で言うだけあってかなりスマートになり、努力のあとが顕著であった。さすが!私も努力のやり直しをしなきゃならんな。とりあえず昨晩からまだ麦茶を煮出して大量に飲んでいる。食べるものの量と質も気をつけよう。

日航機墜落事故20周年

昨日書こうと思って書けなかった事。(例によって横になったら寝ていたんだ…)「御巣鷹の尾根に慰霊登山 ジャンボ機墜落20年」…もうあれから20年も経ってしまったのか。あの日、昭和60年8月12日、私は中学3年生であり、受験生でありながら人生で最大の大旅行「北海道の国鉄全線完乗の旅」に出かける、まさに第一日目であった。12日は朝早くに家を出て最寄の南福岡駅(まだ笹原駅はなかった)から7時53分発の普通電車に乗って、一日かけて大阪まで普通列車で移動。夜行の臨時急行「アルペン」(485系)に乗って富山を目指す、という行程を組んでいた。一日中列車の中にいたので外界での出来事は一切知らず、事故の起こった瞬間に私は大阪に向かう非冷房の電車の中でこれからのことに思いをはせていたのだ。
アルペン」は翌13日早朝に富山着。すぐに糸魚川行きの快速電車に乗換えたが、この快速が特急車両の間合い運用グリーン車にもグリーン券なしで乗車できるためにわざとコレを狙ったと言ってもいい。だからよく憶えている。そして糸魚川に着いて朝食を買うために駅の売店に行ったときに新聞の見出しを見て初めて事故を知った。新聞を買って駅の待合室で食い入るように見た、記憶がある。
半月間の旅(道内は10日滞在)で当時の国鉄路線を全線完乗したのだが、この旅と日航機墜落事故は私の脳内で密接にリンクした。すなわち、駅で乗り換えの間に待合室で映されている映像は、高校野球もさることながらニュースの時間には必ずコレ。あの有名な川上さんの救出シーンも見た。もちろん待合室で待ってる乗客たちの話題もコレ。新聞を買って事故のことをチェックするのが日課となった。
そういうわけなので、日航機事故と聞くとあの旅を思い出して懐かしくなってしまうのだが、それがもう20年も前のことか…あの時乗車した美幸線は一ヵ月後に廃線となり今は「トロッコ王国」で一部のみトロッコで走れる有様。実はそれはまだいいほうで、多くのローカル線があれから廃止となって今は痕跡しか残さぬ。時の流れるののなんと無神経かつ残酷なことよ。
一挙に520人も死亡した事故の惨劇そのものもいまだに心胆寒からしめるものがあるが、この20周年を記念する特別な日によりによってまた日航がやりやがった!それが「<JAL系機>飛行中エンジンから出火、福岡空港に緊急着陸」である。エンジンが壊れたのが原因らしいが、なぜ壊れたかはまだわからんのだと。福岡空港は市街地のすぐ近くにあり、発火したエンジンから降り注いだ部品がクルマに当たったり、落ちた部品に触って火傷した子供などがいたりしたそうである。死者が出なくて良かったねというところだが、それにしても日航はちょっと酷すぎやしませんかね?記念の日に起こすというタイミングの悪さもまた、何をかいわんやだな。

長い長い夏休み、だそうです

指摘されっぱなしというのは悔しいので、自分も指摘しておくか…。M永氏の日記の日付が三日連続で「木曜日」になってます。コレを見たら修正しておいてください(^_^;)。でも、M永氏はなんだかずいぶん長いお休みに入ったみたい。愛知万博に行くとも言ってたし、いつ修正されるかマターリと鑑賞させていただきますわ。