【お盆特別企画】1985年8月旅行記その11:釧路から札幌まで

急行「まりも」で札幌に到着した後、一時間半待って8時発特急「おおぞら1号」釧路行きに乗車。釧路から来て釧路行きに乗る。相変わらずおかしなことをやっているが読者ちゃんの皆様はもう慣れたでしょう。特急はさすがに速い。新夕張には70分で着いてしまう。
新夕張は昔は紅葉山という名前の駅だったが、石勝線開通により改称。同時に夕張線と言っていた区間も石勝線という名前になり、新夕張から夕張までの区間も石勝線と言われるようになった。このため、この区間は閑散としているにもかかわらず今も健在だ。その新夕張からの夕張行きはそれなりの乗客を乗せて定刻に出発。次の沼ノ沢駅では石炭列車を見た。北炭真谷地炭鉱からの専用線が出ていたそうだ。
さらに快調に走って清水沢に到着。ここからは当時大夕張鉄道という私鉄が出ていた。石炭を運ぶための線路だったが当時まだ健在だった。今思えば是が非でも乗っておくべきだったと思うのだが、当時は資金面・時間面で国鉄完乗を優先しており、ここは断念せざるを得なかった。何せ大夕張鉄道は1日3往復、朝夕しか走ってないのでとても合わせられなかった。
と、残念に思いながら清水沢を後にしたのだが…列車は上り勾配の途中で止まってしまった。真夏、そして非冷房車。窓全開だけど風が入らなければ暑くて仕方がない。結構長い間停車した後、車掌からの案内はこうだった。「後ろの車両が故障しましたので清水沢駅に戻ります」。なんだってー!?
2両編成の後ろの車両(キハ40 248)のエンジンが故障、坂を登りきれなくなってやむを得ず元の駅に戻らざるを得ないという有様になってしまった。清水沢で故障車を切り離し、1両編成になって終点を目指すことになった。私は幸い前の車両(キハ40 110)乗っていたので席の移動はせずに済んだが後ろの車両から大勢移動してきて車内は満員になってしまった。
このせいで列車は一時間も遅れてしまったので、終点夕張での折り返し時間はわずか3分!荷物は座席に置いたまま駅窓口に急行して硬券乗車券を買ってくるのが精いっぱいであった。なお、このときの夕張駅は石炭の積み出し駅として炭鉱のすぐ近くにあったが、炭鉱は廃鉱となりやたら荒涼としただだっ広い構内だったと記憶している。夕張駅はその後2回も移転したため、今の夕張駅から昔の夕張駅まで2㎞強が廃線となっている。
1時間も遅れて新夕張に戻って来たので、当初予定していた特急「おおぞら3号」には余裕で乗れず、その次の特急「おおぞら5号」まで何もない新夕張駅でじっと待つはめになった。なにせ新夕張から新得までは特急・急行しか走っていないので仕方がない。しかも後続の「おおぞら5号」も遅れたため、新得には12時半に到着。これの何が困るかって、新得で乗り換える予定の滝川行きとの乗り換え時間が0分になってしまった!!新得で車掌や駅員にせかされて、ホームを激走し跨線橋を八艘飛びで乗り越えて隣ホームの列車にあわただしく乗り換えた。いやー大変だった。
数日前にも乗った根室本線を逆向きにたどり、これまた4時間半の長丁場でローカル線を満喫。そして終点滝川へ着いたのはもう17時。そろそろ日が暮れるころだが、ここからもうひと頑張りだ。
滝川から即座に砂川に移動し、17時52分発上砂川行きに乗車。この路線は函館本線上砂川支線と呼ばれ独立した路線名は付いていない。それが幸いして、80年代の赤字ローカル線廃止問題では廃止対象に選ばれなかった。終点の上砂川駅は「昨日、悲別で」というテレビドラマに登場した悲別駅として撮影が行われた駅であり、その後も駅には「悲別駅」の看板と、ドラマ撮影の様子を撮った写真がベタベタ貼ってあって、気分はすっかり悲別駅であった。たしか硬券入場券の裏にも悲別って書いてあったような。
上砂川から砂川に戻ってきてさらにもうひと頑張り。歌志内線歌志内行きに乗車。だが、もう19時過ぎて残念ながら夜の風景。歌志内線は上砂川支線より経営成績は良かったものの、独立した路線名を持っていたため赤字ローカル線として廃止対象となり、1988年に廃止になってしまった。なお上砂川支線も1994年に廃止になったので、今は砂川駅から分岐する線路は無い。
歌志内から砂川に戻り、特急「ライラック24号」で札幌に戻った。これが781系の初乗りとなる。札幌ではようやくホテル泊。疲れを癒します…