【お盆特別企画】1985年8月旅行記その8:網走から豊富まで

3度目の「大雪4号」を降りた駅は深川。1回目は札幌で降りて岩見沢に戻り、2回目は岩見沢で降りて深川に戻り、3回目は深川で下車。一体なんなんでしょう…。ま、こういうバカをやるのも鉄ヲタならではということで。深川到着4時12分、次の列車までたっぷり2時間ある。
それだけ待って乗ったのは、深名線朱鞠内行き。美幸線らと並ぶ赤字ローカル線の代表格で、国鉄末期の赤字ローカル線廃止問題の時は並行道路未整備を理由に廃止対象を免れた。よって美幸線や添田線(福岡)らのライバル亡きあとは日本一の赤字線の名をほしいままにした超ローカル線である。さすがにここまでやって深名線の始発に乗る鉄は多くなく、車内は空いてて快適そのもの。超ローカル線の旅を満喫する。
途中に政和温泉という仮乗降場があり、こんなローカル線に似合わない観光地みたいな駅名だが?とは思ったが、駅周辺には何もなし。だがWikipediaで確認すると私が見てない方角に温泉宿があったらしい。しかも、1985年当時は既に休業とな。
さして観光地のない沿線にあって最大の駅が朱鞠内。近くに人造湖朱鞠内湖があり、駅構内も広い。除雪車を格納する車庫まであった。ここで1時間以上の待ち時間があって名寄行きに乗り換えるのだが、実はさっきまで乗っていた列車と同じ車両が名寄まで直通する。列車番号を変えたのは、朱鞠内で1時間以上停車するからであろう。
朱鞠内までもほとんど無人地帯かと思うくらい人がいなかったが、朱鞠内から名寄まではより一層の無人地帯。列車本数も極めて少ないが、それでも北母子里で列車交換して驚く。この駅は無人駅だったので硬券は買えなかったが。沿線は白樺の防雪林が続くばかりでマジで何もない。そんな北海道の大自然すぎる風景を堪能しつつ、名寄に到着。
名寄から旭川行きの普通列車に乗り換え、コマーシャルで全国的に有名になった比布駅に停車した時は「これがかの有名なピップか!」と感激しつつ、旭川に戻って来た。旭川からは留萌・羽幌経由幌延行きというロングラン列車に乗車である。私はこの列車に幌延の手前の遠別で下車したのだが、そこまでで5時間半かかっている。もう、キハ40のイスに括り付けになったような、この時間が永久に続くんじゃないかと思うほど長い長い時間だった。
この列車は深川から昨日乗った留萌本線に入り、留萌から羽幌線に入る。羽幌線は留萌から遠別まで大部分の区間が海岸べったりに敷設されており、窓から見える風景はひたすら日本海。もう絶景と申して間違いありますまい。ちなみにここは国道も海岸べったりなので、ドライブで走っても絶景を堪能できます!でも線路の方がより高いところを走っていたので、もっと絶景(でした…)。
途中、羽幌で長時間停車したり、日本海に沈みゆく太陽をずーーーっと観察し続けたり、思う存分に景色を堪能。もちろん窓は全開で、風を浴びまくりである。残念ながら遠別到着前に日没終了、遠別は真っ暗で何も覚えていない。いったん反対向きの列車に乗って初山別まで戻り、初山別の入場券を手堅くゲットしてからもう一度遠別を通過して幌延到着。
幌延ではわずか18分の待ち時間で稚内行き急行「宗谷」に乗車するのだが、待合室に行くとなんだか見たことのある人物がいた。その人はカップ酒を片手にすっかり出来上がっており、聞いていた通りの風貌。この人こそレイルウェイライター・種村直樹氏で、この時は最長片道切符の旅という企画で列車に乗っているところだった。私が乗った2本の幌延行きのどちらかの列車(おそらくは後の列車)に乗っていたのであろう。
私は種村氏に話しかけてしばらく話し込み、そして一緒に急行「宗谷」に乗車した。しかし私には計画があって、この列車は次の停車駅である豊富駅で降りることになっていた。その間、わずか19分。それでも、有名な作家と一緒に列車に乗ったという記憶は15歳の少年には大変うれしい記憶となっている。その後種村氏にお礼の手紙を送ったところ返信があったが、大変癖のある字で…一般的には下手というが…まあそれも勲章ではある。このことは氏の著作に記載されたが、私は高校生として載っていた。幌延で乗って豊富で折り返していく変な高校生として…。
そんな種村氏も今年ついにご逝去された。それだけ、自分も歳を取ったということだ。時の流れというのはなんと残酷なことか。
豊富では「宗谷」と列車交換する夜行急行「利尻」に乗車。当然ながら激混みだが指定席を取っているので余裕で着席である。